当社の社員旅行先が長崎に決まった際に、観光地として世界遺産となった軍艦島に行くことに決まりました。
結局、当日天候が悪く船による接岸不可ということで、見ることはできませんでしたが軍艦島ミュージアムでVR動画や資料映像等で歴史や背景を知ることとなりました。
1974年に無人島となってから43年廃墟化が進む軍艦島ですが、2014年に世界遺産登録となったことで脚光を浴び、現在では私達が行こうとした様に軍艦島クルーズとして廃墟化が進む現状を見れる、観光スポットとなっております。
廃墟化が進む住宅には日本最古のRC住宅や超高密度のRC建物群があります。
そこで今回のコラムでは仮に軍艦島の1室をリノベーションしたとしたら、どんな問題があったり、どのようなことが起きうるのか資料などから検証してみます。
題して、「軍艦島妄想リノベーション」(あくまでも私的な発想ですので内容に関して苦言などは受けかねます…)
まずは軍艦島を知る
最初に軍艦島(端島)について簡単に以下に記載します。世界遺産登録されてから多くの書籍が出版されておりますので、ここでは簡単な説明のみといたします。端島(軍艦島)は長崎の沖合いに浮かぶ南北480m、東西160mの極小の島で島全体が三菱の所有であり、炭鉱であり、町でもありました。
この島で採掘される石炭は八幡製鉄所に欠かせないものであり、戦前、戦時中、戦後の日本の工業化を支えた近代産業遺産のしまといえます。
正式名は端島であるがその独特なシルエットから軍艦島と言われ、24時間不眠不休で稼働していた鉱山関係者の家族の住居や、商店、学校、神社などがありました。
面積わずか6.3haの面積に最大で人口5259人が暮らしていたその人口密度は今も世界最高レベルとなっております。どのくらいか想像しずらいのですが、人口密度でいうと東京23区の6倍ぐらい。世界トップのマカオの5倍ぐらい。
端島は南半分が鉱山施設が集中していることを考えると、想像を絶する密度と考えられますね。
【歴史】
1810年端島に石炭があることが発見される。
1870年(明治3年)石炭の採掘開始
1890年(明治23年)三菱合資会社の所有となる
1916年(大正5年)日本最古のRCアパート建設(30号棟) 戦時中は朝鮮人労働者や中国人捕虜が労働開始となる
1944年(昭和19年)65号棟建設開始、1949年(昭和33年)完成
1959年(昭和34年)最高人口5259人となる
坑道は最大で1km以上周囲2km四方以上に渡り、デジタルイメージにするとさながらアンブレラ社の様でした。(私見)
1974年(昭和49年)石炭から石油に変化したことから閉山し、無人島に
2014年(平成26年)世界遺産に登録
全島が会社用地という特異な事や、海底水道や屋上庭園に加え強制労働などの光と闇など特筆すべき事項は数々ありますが、本コラムは妄想リノベーションですので、ここでは詳しくは書きません。
「リノベーション住居選択」
軍艦島は島であり台風被害や高波などの塩害、限られた空間に多くの人々がくらさなくてならないなどの理由から多くのRC住宅が建設されていました。その建物は日本最古の30号棟、続いて建てられた16ー20号棟、終戦後に建てられたの65号棟、そのほか中層住宅や小中学校など多岐に渡りますが、本コラムで今回妄想リノベーションするのは65号棟と仮定します。
理由として、資料や写真が比較的多い事や30号棟や16ー20号棟は間取りが単身者向けで小さくあまりにも古い事、65号棟は島最大の集合住宅だったことをあげます。
上の写真を見比べてみると、明らかに65号棟に比べ、30号棟のほうがスパンが狭く、65号棟ではスパンを広げるため梁にハンチを施していることがうかがえます。(※ハンチとは赤丸のように鉄筋コンクリート造の柱の梁や床スラブの端部が他の部分より大きくなった部分のことをいう)
また、写真を見る限り、30号棟にはバルコニーはなく柱と柱の間は木造であることがうかがえます。
軍艦島の主な間取り(RC住宅)
軍艦島でははっきりとしたヒエラルキーが確立されており、特に住居にはそれが顕著に表れていたようです。
部屋数、間取りを職員と鉱員、下請けで比べると圧倒的な格差がありました。また、超高密度の軍艦島では日の当たりやすい上階のほうが良しとされ、住む階数も左右されたようです。
しかしながら、エレベーターはありませんでした。
上記の写真のうち65号棟のLタイプについて、次回以降妄想リノベーションを進めていきたいと思います。
〈参考資料「軍艦島の生活1952/1970」西山夘三著〉
(筆者:H.sakuramoto)